みらいワークス総合研究所は2025年9月12日、新規事業に関する定例セミナーを開催しました。3回目となる今回のテーマは「新規事業開発のヒトとソシキとシクミ vol.03 ~プレイングマネージャーの視点から見た新規事業のリアル〜 」。大日本印刷株式会社(以降、DNP) ABセンター デジタルイノベーション事業開発ユニット データビジネス推進部 第1グループ リーダー 山廣弘佳氏をゲストに招き、大企業が新規事業開発を成功させるポイントや注意点を解説しました。
みらいワークス総合研究所では、新規事業開発をテーマにしたセミナー(勉強会)を定期的に開催。2025年6月に開催した前回のセミナーでは、新規事業開発で用いられる「エフェクチュエーション」の考え方や具体的な活用事例を紹介しました。第3回となる今回は、大企業の新規事業開発の取り組みにフォーカス。DNPで山廣氏が推進してきた事例を参考に、大企業が新規事業開発を進める際の勘所や事業撤退の見極め方などを紹介しました。第1回セミナーで講師を務めた、COTO DESIGN, LLC代表の石森宏茂氏(みらいワークス総合研究所 研究員)がモデレーターを担当しました。
ゲストとして登壇したDNPの山廣氏は、2003年に同社に入社。金融分野で既存事業のソリューション提案などに従事した後、認証DX領域へと軸足を移しました。その後、新規事業創出を目指す本社直轄部署「ABセンター(Advanced Business Center)」に異動。現在は新規事業の立ち上げに携わるチームのリーダーを務めています。
ABセンターの役割について山廣氏は、「DNPでは『印刷』の概念を拡張し、新たな事業領域に挑戦し続けてきた。その取り組みをさらに加速させ、将来を担う新規事業を持続的に創出していくため、2014年に『ABセンター(Advanced Business Center)』を設立。DNPの中で、印刷を起点とした新たなアイデアを社会実装へとつなげる部門の一つとして挑戦を続けている」と説明。ABセンターを経て立ち上げた事業は、成功すると既存の事業部に組み込まれたり、独立した新たな組織が担当したりすることになるといいます。
事業撤退を教訓にする風土を醸成する
今回のセミナーでは、ABセンターが実際に携わった2つの新規事業開発の事例を紹介しました。もっとも1つ目に紹介した新規事業は、成功事例ではなく失敗事例。構想から3年を費やした「DNP引越し手続き一括連携サービスドンドンパ」を使った事業の撤退までの経緯や、撤退から学んだことをセミナー参加者に説明しました。
ドンドンパは、引っ越し時の住民票の転出や電気、ガス、水道といったライフラインの移転手続き、プロバイダーや金融機関などの住所変更手続きを一元管理し、煩雑な作業の省力化を支援するサービス。特徴について山廣氏は、「DNPが保持するセキュリティー技術やデータの取り扱いノウハウを生かしてサービス化を実現した。各種引っ越し手続きをワンストップで済ませられるようにすることで利用者の手間を省けるのがメリットだ。紙での対応が求められる事業者にとっても、関係書類をデータでやり取りできるメリットを見込める」(山廣氏)といいます。
しかし、本事業は最終的に撤退という決断に至ります。山廣氏はその理由について、「参入時にはすでにレッドオーシャンだったのが最大の要因である。サービス提供開始前に市場を十分調査すべきという声もあるが、やってみなければ分からないという思いもあった。当社のセキュリティー技術やデータ活用ノウハウ、さらに顧客接点を強みに打ち出しても、競合がすでにノウハウを蓄積している中で十分な差別化を図れなかった」と、競合に勝てなかったことが主な要因と説明します。なお、最終的な判断は事業オーナーの判断を経営層に上申し、経営層と相談のうえ決定したといいます。
「事業を取り巻く状況を分析し、これ以上利益を生み出すのは困難と判断した。今後、採算がプラスに転じるまでの投資コストも鑑みた。その結果、別の事業にリソースを割くべきという結論に至り、上司や経営層に撤退を上申した」(山廣氏)といいます。
もっとも山廣氏は、こうした経験こそ糧に変えるべきと訴えます。
「事業撤退により自身の評価は下がると思ったが、周囲や経営層の反応は違った。『良い経験をした。これは失敗ではない』と評価してもらった。この経験を他のメンバーに包み隠さず話すことが大事だと促された」(山廣氏)と、当時を振り返ります。DNPには失敗を許容する文化が醸成されており、「撤退を正当な経験値として評価する風土を育むことが、大企業の新規事業開発の土台となる」(山廣氏)と指摘します。
経営層のチャレンジを許容する姿勢も必要だと山廣氏は続けます。
「DNPでは経営層が『チャレンジしていいんだよ』という空気を作り出している。失敗を責めると誰も挑戦したがらなくなるのを十分理解している。これは、DNPの歴史に起因する。デジタル化が加速する中、DNPでは印刷物に依存せずに印刷以外の領域に活路を見いだす必要性に迫られた。このとき何度も失敗を繰り返してきた。こうした経験を積んだ人たちが現在の経営に携わっている。経営者のチャレンジへの理解が、新規事業開発を強く後押しする」(山廣氏)と述べました。
新規事業担当者を評価する軸を設ける
一方、山廣氏は企画からわずか2年でローンチし、今後の発展が期待される事例も紹介しました。その事業が「CATRINA(カトリーナ)」です。
社員証や卒業証明書などの紙ベースの情報をデジタル化し、安全に管理、運用するためのプラットフォームを提供します。「サービスを提供する事業者がデータを一元的に管理するのではなく、ユーザーが自らデータを管理する『個人主権型』の認証基盤であるのが特徴だ。データを取得し保持する中央集権的な仕組みではなく、必要な情報を最小限で取り扱うことができ、あくまでデータ管理はユーザーに委ねられる。個人情報の共有を最小限にとどめられるほか、証明書などを利用する際の煩雑な手続きも低減できる」(山廣氏)と述べます。なお、欧州や米国ではプライバシーや個人情報管理に対する意識が高く、国際的にも分散型の思想に基づいた仕様整備が進んでいるといいます。
さらにCATRINAの強みとして、「DNPが長年培ってきたセキュリティー領域のノウハウを生かしている。クレジットカードなどの個人情報をどう扱うべきかといった知見も生かしている。こうした経験値を認証基盤とともに顧客に提供できるのが本事業の強みである。加えて、こうした技術をどう運用すべきか、運用するにはどんなルールを設けるべきかも含めて顧客を支援するのも大きな特徴だ」(山廣氏)と説明します。
もっともCATRINAは、DNP一社では成り立たないと山廣氏は指摘します。
「多くの企業が各社プラットフォームの個人情報を活用することで、分散型プラットフォームの価値は最大化する。そのためには多様なプラットフォームが相互運用性を担保し、活用する企業も増やさなければならない。パートナー企業との連携を前提にしなければ事業の成長は見込めない」(山廣氏)と断言します。そこでDNPは現在、実証実験にも取り組みます。例えば、金融庁が関わるFintechの実証実験では、ある金融機関が保有している本人確認情報をプラットフォーム経由で他の金融機関が使えるようにし、他の金融機関での口座開設時に利用できないかということが検討されたといいます。
海外事例として、観光業ではすでにプラットフォームを活用し、観光客のデジタル化されたパスポート情報を活用する取り組みも出てきています。入国審査や宿泊施設のチェックインで、デジタル化されたパスポート情報を活用することで、パスポートの現物確認を不要としている。事業者としては現物の取り扱いの煩わしさから解放されます。
山廣氏は本事業にマネージャーとして参画。新規事業をけん引する立場としての難しさにも言及しました。
「マネージャーとしてもっとも難しかったのは、新規事業に携わる担当者をどう評価すべきかということ。担当者の強い思いや努力、頑張りは目に見えて分かるものの、既存事業のように定量的な結果がすぐに表れるわけではない。何を軸に担当者を評価すべきか悩ましかった」(山廣氏)と振り返ります。そこで評価の際は、新規事業の特性を見極めるとともに、「何をするのか」といったタスクに落とし込み、その達成状況を評価軸にしたといいます。ただし、「タスクをクリアできなかった場合でも、なぜできなかったかを必ず分析するようにした。技術的な要因や個人の能力不足などの理由を洗い出し、目標達成度と合わせて評価に反映させるよう努めた」(山廣氏)といいます。さらに、「自分自身が若手だったころ、努力が正当に評価されない苦い経験をした。だからこそ、頑張っている姿勢をできるだけ評価するよう心掛けている」と、自身の考えに基づき評価していることも説明しました。
さらに山廣氏は、大企業の中で新規事業を推進するポイントも指摘しました。
「何より大切なのは対話。新規事業開発を行っていない人たちを巻き込むためには、彼らがその事業についてどう考えているかを話してみないとわからない。まずは相手に飛び込み、相手が寄り添ってくれるような関係を築くべきだ。しかしコミュニケーションの得手不得手には個人差がある。そこで本事業では私が先頭に立って関係構築に努めるようにしている。和んできたらメンバーを呼び、多くの人との関係値を築けるよう配慮している」(山廣氏)と説明しました。現場との理解を深めるにはリアルで会うよう心掛けるほか、社内外でできたコネクションを最大限活用することも大切だと述べました。
なおセミナーでは、山廣氏自身がプレイングマネージャーとして新規事業開発に携わったときに感じたこと、失敗を糧に変えるポイントなどにも言及。
山廣氏は「新規事業のアイデアへの共感と強い思いが事業推進の原動力となる。加えてリーダーがチームを鼓舞し、諦めない姿勢を植え付けることが大切だ。もちろん、挑戦を支える周囲の理解も不可欠である。こうした社員の思いをくみ取って後押しする体制づくりが、未来の成功を呼び込む」とまとめました。