はじめに|「で、その人材投資は、株価に効くんですか?」
6月。3月期決算企業にとって、定時株主総会の本番です。東京証券取引所が4月28日に公表した集計によれば、今年の最集中日は6月26日(金)で、31.0%の企業がこの日に総会を開く見込みです(*1)。あなたの会社も、まさに招集通知と想定問答集の最終確認に追われている頃ではないでしょうか。
今年の総会には、これまでと違う緊張感があります。2026年3月期の有価証券報告書から、人的資本に関する開示が拡充されたからです。「企業戦略と関連付けた人材戦略」を語ることが、いよいよ求められるようになりました。
ところが、その準備の過程で多くの担当者がつまずくのが、AI人材育成の扱いです。研修も投資もしてきた。第6回で扱った「5段階ROI」で、社内向けの効果測定もある程度できるようになった。でも、いざ統合報告書や総会の場で投資家に向けて説明しようとすると、手が止まる。「何を、どの指標で示せば、株主は納得するのか」——この問いに、まだ答えが用意できていないのです。
本稿では、AI人材育成を「人的資本経営」として開示する道筋を、3月に出たばかりの政府指針と先進企業の実例から具体的に示します。
「やっています」では、もう投資家は動かない
まず、潮目が変わったことを確認しておきましょう。
2026年3月23日、内閣官房・金融庁・経済産業省は「人的資本可視化指針(改訂版)」を公表しました(*2)。2022年版からの大きな更新で、国際的な開示基準(ISSB基準)を踏まえ、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標および目標という4つの要素に沿って人的資本を語る考え方が整理されました。
ここで肝心なのは、改訂が問うているのが「開示項目を増やすこと」ではない、という点です。デロイト トーマツは2026年4月の解説で、今回の改正・改訂が本当に問うているのは「経営戦略と人材戦略が本当に連動しているか」だと指摘しています(*3)。
つまり、こういうことです。「AI研修を年間480人に実施しました」「ChatGPTを全社配布しました」——こうした“活動の報告”は、投資家にとってもはや情報ですらありません。彼らが知りたいのは、その人材投資が自社の成長戦略のどこに効き、何年後にどんなリターンを生むのかという一本の筋なのです。
あなたの会社の有報には、AI人材育成の取り組みが「研修の話」として書かれていますか。それとも「経営戦略の言葉」で書かれているでしょうか?
投資家が本当に見る、4つの指標
では、何を示せばいいのか。読者の関心に引きつけて、4つの軸で整理します。
1つ目は育成投資額(インプット)。一人あたりいくら、何にいくら投じたか。2つ目は活用率(アクティビティ)。配ったツールが実際にどれだけ使われているか。3つ目は生産性向上(アウトカム)。AI活用で削減できた時間や、増えた処理件数。4つ目がリテンション(定着・維持)。育てた人材、特に希少なAI・デジタル人材が辞めずに残っているか。
この4つを並べるだけなら、誰でもできます。でも、ただ並べた“単一指標の羅列”では、投資家の期待にはもう応えられません。改訂指針(*2)が強調するのは、これらを経営戦略とひもづけ、進捗(しんちょく)を測れる目標とセットで示すことです。
例えば「AI研修受講率90%」という数字。これ単体では「だから何?」で終わります。ところが「2027年度までに営業提案書作成業務の生産性を30%高める。そのために対象部門の活用率80%を中間目標に置く」と語れば、受講率は戦略の進捗を測る計器に変わります。大和総研(*4)も、開示の好事例企業に共通するのは指標の多さではなく、経営者のビジョンと一貫したストーリーだと分析しています。
数字は、物語に埋め込まれて初めて意味を持つのです。
先進企業は、AI・デジタル人材をこう開示している
抽象論はここまでにして、3月公表の付録①(*2)に載った実名事例を見てみましょう。いずれも「経営戦略→人材戦略→指標」が一本につながっている点が共通しています。
デンソー社は、電動化・ソフトウエア・半導体への「事業ポートフォリオ変革」を実現するため、それを支える「人財ポートフォリオ変革」を掲げました。注目すべきは、事業戦略上重要な535の専門性を定義し、2030年度のあるべき開発設計技術者の構成比について、目標と過年度実績の両方を示している点です。ソフトウエア技術者への転身、つまりリスキリングの施策まで開示しています。
中外製薬社は、成長戦略「TOP I 2030」を3つの柱に分解し、そのうち「DX」の柱に「デジタル人財の充足度」というKPIを直接ぶら下げました。「DXをやる」ではなく「DXに必要な人材がどれだけそろったかを、この数字で測る」と宣言しているわけです。AI人材育成を語りたい担当者にとって、これはほぼお手本です。
カプコン社は切り口が違います。開発体制の拡充という戦略に対し、平均年間給与に加えて開発職の内数としての給与・人員数・新卒採用数を開示しました。「重要な人材に、相応の待遇で報いている」ことを数字で見せ、リテンションの裏付けにしているのです。
ここから、月曜にできることが見えてきます。自社の中期経営計画を一枚開き、「この戦略を達成するには、どんなAI・デジタルスキルを持つ人材が、いつまでに何人必要か」を書き出してみてください。戦略のゴール → 必要な人材像 → それを測る1つの指標。この3点を線でつなぐ作業が、開示の出発点になります。
あなたの会社は、AI人材育成の「投資額」と「その効果」を、一枚の図でつなげて見せられるでしょうか?
株主総会の壇上で、30秒でこう語る
開示書類が整っても、最後の関門が残ります。総会当日、株主からの質問に役員が答えられるかどうかです。
想定しておきたいのは、こんな問いです。「AIに巨額を投じているが、それは本当に利益につながるのか」。ここで「重要な投資です」と繰り返しても、株主の表情は動きません。効くのは、02で整理した4指標を戦略に接続した、短い説明です。
例えば——「当社はソフトウエア領域へ事業の軸足を移しています(戦略)。そのため開発・営業部門のAI活用人材を3年で倍増させる計画で、昨年度は育成に○億円を投じました(投資額)。すでに対象部門の活用率は○%に達し、提案業務の時間を○%削減しています(活用率・生産性)。育てた高度人材の定着率は○%を維持しており(リテンション)、この投資は3年で回収できる見通しです」。
事実と数字を、戦略という背骨に沿って並べる。たったこれだけで、説得力はまるで変わります。前回(第14回)で扱った人事・総務・経理など間接部門の活用も、こうして「全社の生産性指標」に束ねれば、立派な開示材料になります。
社内向けの効果測定(第6回)と、社外向けの開示(今回)。この2つを同じ4指標でつないでおけば、経営会議で使った資料が、そのまま総会の説明材料になります。二度手間がなくなるのです。
6月の総会で「なぜ、その人材投資がわが社の成長に効くのか」を、あなたは30秒で語れますか?
「投資」を「物語」に変えられる企業が、選ばれる
人的資本開示は、コンプライアンス対応ではありません。AI人材育成という、これまで“コスト”に見られがちだった投資を、「わが社が成長し続ける根拠」として市場に提示できる、またとない機会です。
多くの企業が幻滅期に取り組みを縮小するなか、地道に育成を続けてきたあなたの会社には、語るべき物語があります。あとは、それを投資家の言葉に翻訳するだけです。戦略と人材を一本の線でつなぎ、4つの指標で進捗を見せる——今年の総会が無理でも、来年の統合報告書に向けて、今日から準備を始められます。
次回・第16回は、6月から夏にかけての賞与査定シーズンに合わせ、「AI活用人材の評価基準」を扱う予定です。AIを使いこなす人を、どう公平に評価し、処遇に反映するのか。新しい働き方に対応した人事制度の再設計を、具体的に解説します。
開示で外に約束した「人材への投資」を、社内の評価制度で裏打ちする——その接続を、次回ご一緒に考えていきましょう。
< 参考文献・出典 >
*1 株式会社東京証券取引所(日本取引所グループ)「2026年3月期決算会社の定時株主総会開催日の動向について」2026年4月28日
https://www.jpx.co.jp/news/1021/t13vrt0000013v07-att/press202604.pdf
*2 内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)」
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20260323_1.pdf
付録① 経営戦略と人材戦略の連動及びそれを踏まえた指標の開示事例」令和8年(2026年)3月23日
https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20260323_3.pdf
*3 デロイト トーマツ グループ「人的資本開示 2026 府令改正・指針改訂の解説」2026年4月
https://www.deloitte.com/jp/ja/services/audit-assurance/perspectives/human-capital-disclosure-2026.html
*4 大和総研(小林一樹)「人的資本開示の好事例企業にみる共通点」2025年10月29日
https://www.dir.co.jp/report/column/20251029_012339.html