ひとりの研究者の“思い”と“情熱”がカタチに。画期的新製品の誕生を支える制度と文化

キリンホールディングス株式会社
ヘルスサイエンス事業本部 ヘルスサイエンス事業部 新規事業グループ

主務/エレキソルト事業責任者 佐藤 愛 様
2010年キリンホールディングス入社。清涼飲料の研究開発、新規食品素材の開発と事業化検討、キリン食領域の研究企画に従事。その際、“アングラ研究”で大学と共同研究していたFoodTechの新技術を活用して、キリングループ社内の企業プログラムに応募し本事業を起案。産学連携で新テクノロジーを生み出し、お客様の生活がより良いものになるよう変革することを目指して、エレキソルト事業を推進する。

キリンホールディングス株式会社

ビールや飲料、医薬、ヘルスサイエンスなど多角的な事業をグローバルに展開する持株会社です。お客様のウェルビーイングに貢献することを目指し、「食と健康」の新たなよろこびを広げることに取り組んでいます。持続可能な社会の実現に向け、CSV(共有価値創造)経営を推進し、環境や社会に配慮した事業活動を積極的に行っています。
https://www.kirinholdings.com/jp/


エレキソルト スプーン/エレキソルトカップ

おいしく生活習慣の改善ができる社会の実現を目指し、明治大学 総合数理学部先端メディアサイエンス学科の宮下芳明研究室との共同研究によって開発した減塩食品の塩味を約1.5倍※1に増強させる独自の電流波形の技術※2を搭載した減塩サポート食器。※1 一般食品を模したサンプルを比較対象とした、食塩を30%低減させたサンプルでの塩味強度に関する評価の変化値。エレキソルトの技術(電流0.1~0.5mA)を搭載した箸を用いた試験。なお、被験者である現在または過去に減塩をしている/していた経験のある40~65歳男女31名に対し、試験用食品を食した際に感じた塩味強度をアンケートしたところ、31名中29名が塩味が増したと回答。
※2 2022年4月11日(月)当社ニュースリリース「世界初!電気刺激の活用で塩味が約1.5倍に増強される効果を確認」
https://electricsalt.shop.kirin.co.jp/

企業が成長を続けるうえで必要不可となる新規事業。ビジネス環境の変化が激しい時代において、新たな事業を創出し、軌道に乗せるために必要な条件は何か、どのようなアイデアをカタチにして、どのような体制で事業化していったのかを深堀する本企画。今回は、キリンホールディングス株式会社ヘルスサイエンス事業本部ヘルスサイエンス事業部 新規事業グループの佐藤 愛 様に話をうかがいました。

“食生活は大きく変えられない”という課題を技術の力で解決したい

佐藤さんが取り組まれている新規事業「エレキソルト」が誕生した背景から教えてください。

ヘルスサイエンス事業は、キリングループ全体の次なる成長の柱として位置づけられています。その名の通り、ただ「健康」とうたうだけでなく、「サイエンス」に基づいて事業を展開していかなければ、お客様の信頼を獲得することはできません。やはり科学的な根拠が必要となります。ですから、サイエンスに基づくという点を重視し、我々自身も自信を持ってお伝えできる製品づくりにこだわっています。

新規事業を立ち上げる上で、大きく分けて3つのパターンがあると考えております。まず1つ目は、戦略に基づいたアプローチです。「ここに市場がある」という戦略的な判断から、我々が攻めるべき領域を定めて事業を起こすパターン。2つ目は、技術の種つまり「シーズ」から発想し、そのシーズを大きく育てていくパターンです。そして3つ目は、お客様のニーズやお声をもとに、ボトムアップで新規事業を立ち上げていくパターンです。この3つの取り組みの中で、お客様のニーズを基に新規事業として育てていくアプローチから生まれたのが、今回の「エレキソルト」事業となります。

ニーズから生み出される事業を立ち上げていくプロセスについて教えてください。

弊社では社員がボトムアップで提案していく文化が強く根付いています。現在、「キリンビジネスチャレンジ」という制度を運用しており、従業員が現場の課題などに触れる中で“事業を起こしたい”と考えた際に、その挑戦を支援する制度です。

例えば、良いアイデアはあっても事業計画書を書いたことがないという社員がほとんどですので、その事業計画を「審査」という形を通して一緒にブラッシュアップしていく仕組みになっています。これは単なるビジネスコンテストではなく、事業計画そのものを磨き上げる機会と位置づけています。さらに、社員個人だけでなく、別の企業や社外の方とグループを組んでの提案も推奨しており、非常に門戸が広いのが特徴です。

実は、この「エレキソルト」も、私が明治大学の先生と共同で、このビジネスチャレンジに事業提案をしたものです。社外の知恵をお借りしながら一緒にチームを組み、事業を提案しました。そして、そこで採択された案件は、正式なプロジェクトとして社員を配置し、事業として動かしていく体制を整えています。

このビジネスチャレンジが立ち上がった当初は、応募件数も数十件程度と少なかったのですが、年々応募数が着実に増えてきております。経営層からもこの取り組みに力を入れるよう後押しがありますし、各現場のリーダーも、メンバーがボトムアップで挑戦することを推奨する風土が根付くよう働きかけています。最近では、グループ会社が増えたこともあり、本当に多様なグループから事業提案がなされるようになりました。

 

制度として確立されているだけでなく、それを後押しする風土もあり、さらに外部のリソースを活用できる幅広さもある。そうした要素があるからこそ、具体的にプロジェクトを進めていけるのですね。

おっしゃる通りです。CVCによってスタートアップ企業とつながりやすくなりましたし、キリングループ全体の特徴として、メンバーが部署やグループ会社間を比較的行き来しやすい文化があります。そのおかげか、社内の連携も非常に活発です。例えば、私は元々研究所の出身なので金融関連の知識には疎いのですが、「事業計画のPL(損益計算書)はどう立てればいいか?」といった相談は、それが得意な部署にすぐに聞きに行くことができます。

また、製品を販売するにあたっても、様々な企業様からお問い合わせをいただくのですが、その際にはキリンビールの営業担当者が一緒に同行して橋渡しをしてくれることもあります。そうした部門間の横連携は、少し声をかければすぐにつながる体制になっています。

 

改めて「エレキソルト」が生まれた経緯をお聞かせください。

私は元々、新卒でキリンの研究所に入社しました。とはいっても、純粋な研究というよりは、新しい事業につながる技術開発や、その技術を使った事業開発を担当していました。そのため、研究を進めながら、例えば食品素材を開発すればその物流網を構築したり、開発した素材を持って様々な企業へ販売に伺ったりと、幅広く様々な業務に携わっていました。

特に印象に残っているのが、炭酸ガスを含む氷のような、口に入れるとパチパチと弾ける新しい食品素材を開発した時のことです。その安全性を確認するために大学病院の先生と共同研究を行っていたのですが、その際の雑談の中で、先生方から「食事療法はなかなか患者さんに続けてもらえない」という話をお聞きしました。そこで、実際に患者様にもお話を伺ってみると、「食事療法が大事なのはわかっているけれど、どうしても続けられない」という声が多く聞かれました。そのギャップは一体どこから生まれるのだろう、と考えたのが、この開発のそもそものきっかけとなりました。

私自身も、患者さんと同じように1日の食塩摂取量を半分にする生活を試してみました。今の減塩食は本当に美味しくできているので、最初は“これなら続けられる”と思っていたのですが、食べ慣れた味からいきなり塩分を半分に減らしたことで、食事の満足感が少しずつ変化していきました。最初は食べられていたものが、徐々に物足りなく感じ、ついには“1食抜いてしまおうか”と食事を抜くようになったり、食べられる量自体も減っていったりしました。その結果、3か月後には体重が5kgも減ってしまい、家族から「もうやめなさい」と止められ、減塩生活を脱落してしまった経験があります。この経験から、続けることの重要性を理解していても、特に食生活をいきなり大きく変えることには大変な苦労が伴うのだと痛感しました。そこで、“これを技術の力で何とか解決できないか”と方法を探し始めたのが開発のきっかけとなります。

大学へのアプローチや制度活用、あらゆる手段を講じながら実現を目指す

当初は担当業務とは直接関係のない、ある意味で個人的な活動だったかと思いますが、何が佐藤さんを突き動かしたのでしょうか。

理由は2つあります。まず1つは、私の「思い」です。私は元々、人々の健康や生活を変えるような技術や事業を生み出したいという思いで入社しました。ですから、今回の減塩に限らず、常に幅広く情報収集をしていました。特に、自分で体感しないとわからないことが多いと考えており、例えば嚥下の問題を聞いた時にはしばらく流動食で生活してみたり、昆虫食がテーマになった時には自分で蚕を飼って食べてみたりと、体を張って実践してきました。そうすることで、机上の空論ではなく、実際にどのような問題が起こるのかを肌で感じるようにしていたのです。そうした「思い」がまず根底にありました。

そして2つ目の理由が、その挑戦を支援してくれる会社の制度があったことです。特に、キリンホールディングスの研究所には「10%ルール」というものがあり、業務時間の10%を、健康課題や社会課題の解決につながるような新しい探索活動に充ててよいことになっています。いわゆる「アングラ研究(非公式の研究活動)」のようなものですね。私もこの制度を活用し、最初は素材開発や企画業務の傍ら、10%の時間を使ってこのテーマの探索を進めていました。

まずは食品素材や調味料といったアプローチを試みました。しかし、ご存じの通り、食品メーカー様の努力によって減塩食はすでにおいしいものが多く存在します。そこで、全く別のアプローチを探そうと考えました。

私は元々ゲームが好きだったこともあり、あえて専門外であるバーチャルリアリティの学会にも参加してみました。そこで、バーチャルリアリティの世界では視覚や聴覚だけでなく、嗅覚や味覚の研究もかなり進んでいることを知りました。その中の一つとして、明治大学の先生が研究されていたのが「電気味覚」でした。これは電気を使って味を変化させるという技術で、「これなら減塩の課題とマッチするかもしれない」と考え、すぐに先生の元を訪ねて「共同研究をしませんか」と持ちかけました。

幸い、先生もご自身の研究を社会実装したいという思いが非常に強い方だったので、お話をしたところ、すぐに「ぜひ共同研究をやりましょう」ということになりました。契約が始まったのは2019年からですが、話がまとまったのは2018年の末頃でした。そこから、電気味覚の分野で「減塩食をおいしくする方法はないか」という共同研究がスタートしたのです。

 

アカデミアの研究に佐藤さんたちが加わったことで、何が大きく変わったのでしょうか。

大きく分けて2つのポイントで前進させることができました。まず1つ目は、研究の方向性を、「食事全体の味わいを本当においしくする」という方向へと基礎研究の段階から舵を切ったことです。それまでの研究は、塩味や甘味といった「基本五味」がどう変わるかというものが中心でした。しかし、実際の食事は様々な味が混ざり合った複雑なものです。

また、食事の一連の動作に合わせて自然に電流を流せなければ、日常生活で使うことはできません。電流の流し方によっては、不快な刺激を感じたり、EMSのように腕の筋肉がピクッと動いてしまったりすることがあります。食事中にそのようなことが起きては、とても使えません。

そこで、食事の動作に合わせて自然に効果を感じられるような、最適な電流の流し方はないか、という研究を最初に行いました。この点については、明治大学とキリンで明確に役割分担をしました。先生方には電気味覚の専門家として電流の流し方そのものを、そして我々キリン側は、長年培ってきた「食事の美味しさの評価」のノウハウを活かしました。また、ビールサーバーなどの開発で得た知見を基に電気デバイスのプロトタイプを製作するなど、お互いの強みを持ち寄って研究を進め、まずは製品に搭載する最適な電流の流し方を確立しました。

 

10%ルールを使って佐藤さんがお一人で活動されていたわけですが、佐藤さんお一人で、どこまで構想を練られていたのですか

実はかなり長い間、10%ルールの範囲内で活動していました。この制度では、ある程度の予算を使って共同研究を行うことも可能だったのです。研究所の所長に紙芝居のような資料で「この技術で社会はこう変わります。だから研究費をください」とプレゼンし、まずは少額の予算をいただいて、先生方のご協力のもと小規模な共同研究を始めました。

その研究の中で、「減塩食の味わいを変えられる可能性」が見えてきたため、そこからは、先ほど申し上げた「ビジネスチャレンジ」の制度を活用しました。より大きくプロジェクトを動かしたいという思いから、事業として採算が取れ、お客様に価値を提供できるという姿をきちんと描いてコンテストに応募したところ、採用されまして。1年間のプログラムを経て2020年に正式にプロジェクトとして承認されました。ただ、当時はまだ研究所の企画部門の仕事が残っていたため、しばらくは兼任という形で、企画とこのプロジェクトの仕事を半分ずつ担当させていただきました。その兼任期間が1年ほど続きました。

企画部門の仕事にもやりがいを感じており、どうしてもやり遂げたいという思いがありましたが、私にとって二足のわらじを履き続けるのは少々難しかったため、その1年間の兼任期間を経て、こちらのプロジェクトに専任として従事させていただくことになりました。

 

ビジネスチャレンジでは、どのような点が評価されたのでしょうか。

当時のビジネスチャレンジでは、「本当にお客様が存在するのか」という点が特に重視されていました。そのため、私たちが「もしこれが製品になったら、このような形になるのではないか」と妄想で描いた「ペーパープロト」と呼ばれる試作品をお客様にお見せし、「これによって生活が変わるかどうか」を直接アンケートで調査、ユーザーインタビューを実施しました。それに加えて、事業として本当に収益が上がるのかを検証するために、10年スパンの事業計画を立て、どの分野にどのように投資すれば収益が見込めるかという計画も提出しました。これらの準備を、1年間かけて徐々に詰めていきました。

実は、このビジネスチャレンジの仕組みには特徴がありまして、経営層や外部のコンサルタントの方がアドバイザーのような形で指導してくださる体制が整っています。私自身、ユーザーインタビューの経験が豊富ではなかったので、そのやり方から教えていただきましたし、事業計画についても、これまで新規事業に携わってはいましたが、まだ至らない点が多くありました。そのため、修正や添削をしていただきながら、徐々に計画を練り上げていきました。

このコンテストから、毎年2、3件程度の新規事業が生まれています。採択された案件が健康領域であれば、私たちのヘルスサイエンス事業本部で事業化を進めます。一方で、健康領域以外の案件、例えばキリンビールやファンケルの中で事業化した方が良いと判断されたものは、それぞれの事業部で展開するということも行っています。アイデアがだんだんと形になり、最終的に製品として社会に出ていく過程を経験できるのは、非常にやりがいがあります。

「エレキソルト」については実験機の段階から、メディアの方々に取材していただく機会が多くありました。また、私たちには「食事そのものを変えたい」という強い思いがありました。それを実現するにはキリン単独では不可能だと考え、外部の仲間を積極的に増やしたいと考えていました。そのために、あえて開発の初期段階から積極的に情報を公開していったという経緯があります。

 

プロジェクトが承認され、その後、新規事業部門の一つのチームとして活動を開始されたわけですね。どのような体制で事業を展開していったのでしょうか。

事業の運営については、プロジェクトのリーダーにかなり大きな裁量が与えられています。もちろん、レビュー制度のようなものはあり、事業を段階的に大きくしていくために、都度進捗を報告して予算を獲得するというプロセスは必要です。その点はスタートアップ企業と同様の動きになります。しかし、どのように社会へ情報を発信していくかといった戦略の大部分は、プロジェクトのリーダー、つまり事業の責任者に任されています。

これまでの研究開発業務とは大きく異なり、初めて経験することが非常に多くありました。研究所時代にも新規事業に携わっていましたが、最後まで製品化できずに途中で終わってしまうケースがほとんどでした。ですから、このように製品を世の中に送り出すところまで担当したのは、今回が初めての経験です。

その過程での難しさと面白さの両方を感じていましたが、ありがたいことに後者が大部分を占めているかもしれません。ある意味、難しさと面白さは表裏一体です。新規事業の良い点は、小さくPDCAサイクルを回しやすいことです。正解がない中で、何通りもの仮説を立て、それを検証していくというプロセスが非常にスピーディーに行えます。その環境を作るために、あえて既存の組織とは別の部署として新規事業グループを設けている側面もあります。そのため、既存事業とは異なる仕組みで動いている部分も多いです。

私たちは「失敗」というよりは「学び」と捉えており、検証から得られた学びを次のステップに活かしていく体制が整っています。ですから、大きな失敗はありませんが、常に難しさと楽しさが両立しているような、そんな部門です。

 

どのようにしてチームは組成されていったのでしょうか。

弊社には公募制度があり、社内公募を通じて参加するメンバーがいます。また、別のビジネスチャレンジでプロジェクトリーダーを務めながら参加しているメンバーや、他の事業の責任者を務めながら協力してくれているメンバーもいます。このように、ビジネスチャレンジをきっかけに参加するケースもあれば、公募で「新規事業に挑戦したい」と手を挙げて参加するケースもあり、社内では多様な形でチームが構成されています。

非常に独特な雰囲気のチームではあります。皆やる気があるので、気の強いメンバーが多いかもしれません。ただ、出身部署は本当にバラバラです。私はずっとキリンホールディングスですが、中途入社の方もいれば、飲料事業の営業出身者、ファンケルからのメンバーもいるなど、非常に多様です。

この「エレキソルト」の事業は、キリン社内のアセットだけでは実現が困難です。そのため、大学や機器メーカーはもちろんのこと、飲食や食品の分野とも連携しています。キリンは飲料は得意ですが、食品は専門外なので、食品メーカー様や飲食店の企業様とのコラボレーションを積極的に進めています。そうした外部への声がけも担当しますが、逆に外部からお声がけいただくこともあり、それこそが情報発信を狙っていた効果の一つでもあります。

私自身、「こういうブランドにしたい」「こういう事業に育てたい」という思いは当初から持っていましたので、そのビジョンは最初から描くようにしていました。また、研究所時代に新規事業に携わっていた際、当時の所長から「君がやっている研究が、最終的にどんなプレスリリースになるのかを書いてみろ」と、研究の初期段階から言われていました。その経験も、現在の活動に活きていると思います。研究所のそうした文化が影響しているのかもしれません。

誠実さをもって、他の人がチャレンジする物事を全力で応援する文化

様々な思いが詰まった製品の第1弾が2024年の5月に発売開始となったのですね。

2019年の共同研究開始から考えると、5年ほどかかっています。それまでにいくつかの壁がありました。まず、最適な電流波形を見つけることが一つ。そしてもう一つは、プロトタイプから製品への「量産化」のプロセスです。ご家庭で使っていただく製品なので、安全面はもちろんのこと、耐久性や洗いやすさといった点もクリアする必要がありました。そのために100個近い項目を洗い出し、一つでもクリアできなければ修正するという作業を、何度も何度も繰り返しました。プロトタイプから何度も作り直してその過程で、見た目や設計も大きく変わっていきました。

6年もの歳月がかかりましたが、正直なところ、そこがゴールだとは全く思っていませんでした。むしろ、「やっとスタート地点に立てた」という感覚です。というのも、研究所時代のプロジェクトは、製品化に至る前に終わってしまうことがほとんどでしたから。まだまだ改良すべき点は本当にたくさんあります。お客様からは、「使いにくい」あるいは「効果が体感できない」といった厳しいご意見も数多くいただいています。ですから、販売を続けながら、開発と改良も並行して進めている状況です。

一方で、良い反響としては、「食事が楽しくなった」というお声や、ギフトとしてご購入いただくケースが非常に多いです。遠く離れたご家族やご友人のために購入される方がいらっしゃいます。実際に、「プレゼントした母の食事が楽しくなり、食欲が出て血圧も安定した」といったお声もいただきました。ただ、本製品は医療機器ではなく、あくまで食事を楽しむための雑貨品ですので、何よりも「お食事を楽しんでいただけた」という点が、私たちにとって一番嬉しいことです。

長期的なビジョンは、この新規事業が始まった当初から持っていました。この製品を発売した時点で、「5年間で100万人の人に使っていただきたい」という目標を掲げていました。また、海外からもすでにお引き合いをいただいていますので、早く海外展開ができるよう準備を進めています。食塩の課題は、本当に世界共通の課題ですから。

達成感というよりは、「販売開始」という事実に対するハラハラ感の方が強かったですね。「どんな問い合わせが来るだろうか」「設計した商流は本当に機能するだろうか」といった不安で、胸がいっぱいでした。

 

この製品をリリースしたことは、キリンのグループ全体の中で、どのような意義があるとご自身ではお考えですか。

実は、この事業がビジネスチャレンジの最終審査に残った際、「なぜキリンがこれをやるのか」という問いを何度も受けました。「飲料メーカーがなぜ減塩、しかも電気機器を手がけるのか」と。しかし、私自身はそこにあまり違和感を抱いていませんでした。

キリングループは、お酒や飲料、医薬品などを通じて、お客様のご家族やご友人との「楽しい食卓」に寄り添ってきた企業だと考えています。そうであるならば、たとえ形が電気機器に変わったとしても、「楽しい食事に寄り添う」という本質は、キリンがこれまでやってきたことと何ら変わりないのではないか、と。そのように説明を重ねた結果、キリン社内では「だからこそキリンがやる意義がある」と理解を得ることができました。社外のご協力いただいている企業様にもその点をご理解いただき、現在の共同開発に至っています。

やはり「楽しい食事」というのは、誰もが求めていることです。いくら健康に良くても、楽しくなければ続けることはできません。25年9月9日に、私たちは「エレキソルト」の第2弾、第3弾製品の販売を開始しましたが、今後も様々な商品の提案と、さらには減塩の課題に限らず、食事の楽しさに貢献できるような様々な提案をしていきたいと考えています。

 

9月9日に発売された新製品についてですが、従来品と比べてどのような点が変化し、進化したのでしょうか。

まず、減塩をされている方からは「大好きなラーメンや日常の汁物を食べたい」という声が非常に多く寄せられます。これらのお客様の声を受け、第一弾商品は汁物を飲むのに適したスプーン型として開発しました。しかし、「スプーン以外の形態もほしい」「日常的に飲む汁物で使いたい」というお声もいただいたため、お椀型から派生したカップタイプを水面下でずっと開発しており、この度ようやく完成しました。このカップタイプは、日常のスープなどでお使いいただくことを想定しています。特にスープは野菜を手軽に摂れるので、そういった用途でお使いいただきたいと考えています。

スプーン型に関しても、従来品は少し大きかったり、持ち方にコツが必要だったりしたため、電流がより安定して流れやすいように仕様を変更しました。また、デザインも新しいカップと統一感を持たせています。

 

ありがとうございます。最後になりますが、現時点で描いている未来について、お話しいただける範囲で教えてください。

この仕事をしていると、食事に関して課題を抱えていらっしゃる方が本当に多いことに気づかされます。減塩以外にも、食事療法、嚥下の課題、アレルギーなど、多岐にわたります。そうした課題によって食事の楽しさが損なわれてしまっている方々へ、楽しさをプラスできるようなアプローチをしていきたいです。

また、この「電気味覚」という技術自体も、非常に応用の可能性を秘めています。電気で味を変化させるだけでなく、明治大学の先生は「味を情報として扱えないか」という発想をお持ちです。音や映像が電気信号として扱えるように、味も同様に扱えるようになれば、新たな可能性が広がります。私たちも、その社会実装に向けて何か一緒にできないかと考えているところです。

 

今回は「新規事業」という切り口でお話を伺っていますが、それに限らず、この会社で働くことの魅力についてぜひお話しいただきたいです。

様々な仕組みがあることは先ほどお話ししましたが、その仕組みも実際に運用できなければ意味がありません。弊社の特徴として、他の人のチャレンジを推奨し、応援する社風があると感じています。社内外から「誠実」という評価をいただくことが多いのですが、その誠実さをもって、他の人がチャレンジする物事を全力で応援するという文化が、役職の上下に関わらず、全メンバーに根付いています。その文化があるからこそ、仕組みがうまく機能しているのだと思います。

他の人の事業を応援し、一緒に作り上げていくという姿勢があります。また、プロジェクトに直接関わっていなくても、別の部署の人が応援に来てくれることもあります。

そこにきちんとリソースがあてられたり、理解してくれる仲間がいたりするというのは、非常に理想的な環境だとおもいます。もちろん、その事業を認めてもらうための説得材料として、本人も相当勉強して、企画書をしっかり作り込んだ上でのことだとは思いますが、それでも、応援してくれる文化があるかないかでは大きな違いがあると感じます。