本シリーズは「徹底解説!『働き方の自由化』への人材戦略と労働法制」と題し、2027年以降の施行を見据えて議論が本格化している労働基準法の抜本的見直しについて、その方向性と企業への影響を詳しく解説してきました。これまで、労働基準法改正の全体像から先進企業の実践事例、金融商品取引法改正による人的資本情報開示の拡充まで、幅広いテーマを扱ってきました。
今回のテーマは、2026年1月に改訂版(案)が公表された「人的資本可視化指針」です。人的資本経営と労働基準法改正の関係を理解するうえで、この指針は非常に重要な位置を占めています。しかし、指針そのものがやや専門的で難解な印象を持たれがちです。本稿では、シリーズ全体の文脈を踏まえながら、可視化指針の改訂内容を平易に読み解き、労働基準法改正の論点と紐づけた具体的な活用の方向性を示していきたいと思います。
参考資料:人的資本可視化指針(改訂版)(案)に関する意見募集について
https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=060260120&Mode=0
人的資本経営にとっての可視化指針の位置づけ
まず、人的資本可視化指針がどういうものか、シリーズ全体の中での位置づけを整理しておきます。
本シリーズで繰り返し述べてきたように、日本の雇用政策は2017年の働き方改革(過重労働の是正)、2022年からの人的資本経営(戦略的人事施策の実行)、そして2027年の労働基準法改正(働き方の自由化と価値創造の徹底)という三段階の変革を経て進化しています。この流れの中で、人的資本可視化指針は第二段階の「人的資本経営」の中核ツールとして2022年8月に策定されました。「企業が人的資本をどう開示すべきか」を示すガイドラインであり、有価証券報告書などで人的資本情報を開示する際の具体的な枠組みを提供しています。
つまり、可視化指針は「人を生かす経営をしていることを、どのように外部に説明するか」の地図のようなものです。2023年3月期からの有報での人的資本開示義務化、そして前回解説した2026年3月期の金融商品取引法改正による開示拡充と、法制度面での要請が年々強まる中で、この「地図」そのものがアップデートされたことの意味は大きいと言えます。
旧版の何が課題だったのか:改訂の背景を理解する
改訂版の中身に入る前に、なぜ改訂が必要だったのかを整理します。
第一に、旧版は「何を開示するか」の整理にとどまり、「なぜその開示が必要か」「経営とどうつながるか」が漠然としていたことです。旧版でも経営戦略と人材戦略の「連動の重要性」は強調されていましたが、改訂版自身が認めるとおり、具体的にどのようにして経営戦略と人材戦略を関連づけた開示を行うかについては必ずしも明示されていませんでした。そのため、多くの企業が旧版の開示項目リストを「チェックリスト」のように捉え、自社の経営戦略との関連が薄い項目まで形式的に開示するケースが目立つようになりました。投資家からも「企業価値向上に向けた経営戦略の実現に必要な人的資本投資が行われているか、という観点からの情報開示が不十分」との指摘がなされていました。
第二に、国際的な開示基準がこの数年で急速に整備されたことです。ここで少し専門的な略語を整理しておきます。企業の非財務情報開示(環境・社会・ガバナンスに関する情報)の国際的な枠組みとして、もともとTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の提言が広く使われてきました。TCFDは「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」という4つの柱で情報を整理する考え方を示したもので、旧版もこれを参照していました。
その後、2023年6月にISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が、TCFDの考え方を引き継ぎつつ、より具体的で統一的な国際開示基準(IFRS S1・S2)を正式に公表しました。さらに日本ではSSBJ(サステナビリティ基準委員会)がこの国際基準をもとに日本版の開示基準を開発し、2025年3月に確定させています。このSSBJ基準は、2027年3月期から時価総額の大きい企業から段階的に義務化される見込み(2026年3月現在)です。つまり、旧版の指針が策定された2022年当時にはまだ存在しなかった「国際統一基準」が急速に整備され、それとの整合が不可欠になったのです。
改訂版(案)の全体構成:漠然としていたものがどう明確になったか
以上の背景を踏まえて、改訂版(案)の中身に入ります。改訂版は「骨子(案)」(*1)と、その詳細を示す「別紙」(*2)の2つの文書で構成されています。旧版では漠然としていた「経営戦略と人材戦略の連動」が、改訂版ではどのように具体化されたのかを見ていきましょう。
骨子(案)は大きく2つのセクションからなります。
セクション1「人的資本投資及びその可視化の意義」では、改訂の背景と課題認識が述べられています。日本企業の人的資本投資が諸外国に比べて低迷していること、投資家が経営戦略と関連づけた人材戦略の説明を期待していることが指摘されたうえで、具体的な投資のポイントとして、生成AIの進展や人口減少を踏まえた人材ポートフォリオの必要性、ジョブ型人事の導入拡大、女性活躍やダイバーシティの推進、重要スキルに応じた報酬体系といった項目が列挙されています。また、従来の指針が投資家を主な想定読者としていたのに対し、改訂版では「転職希望者や自社の従業員も、企業の人的資本投資に関心を持つ」と明記されました。
セクション2「人的資本の可視化に向けた考え方」が改訂の本丸です。ここは大きく2つに分かれています。「2.1 投資家の期待に応えるための人的資本開示」では、後述する「依存と影響」「リスクと機会」という新たな分析の考え方と、SSBJ基準の4つの要素に沿った開示の枠組みが提示されています。「2.2 経営戦略と連動した人材戦略・人的資本投資の実践」では、「人材ポートフォリオ」の考え方が中心に据えられ、経営戦略から逆算して事業セグメント・地域ごとに人材の質と量の充足目標を定め、そこから具体的な人材戦略・人的資本投資を検討するという実践的なプロセスが示されています。
別紙は「第1部:経営戦略と人材戦略の連動」「第2部:4つの要素に従った開示」の2部構成です。
別紙こそが改訂版の実質的なガイダンスの中核であり、58ページにわたって考え方の解説、投資家の期待、具体的な開示例が詳細に展開されています。
別紙の第1部では、経営戦略と人材戦略の連動について、旧版では「連動が重要」と言うにとどまっていた点を、2つのステップで具体化しています。ステップ①は「人的資本への依存と影響の検討」、ステップ②は「リスクと機会の識別」です。この一連の思考プロセスが、架空のテクノロジー企業Aと小売企業Bという2つの対照的な事例を使って詳細に説明されています。
別紙の第2部では、SSBJ基準の4つの要素(ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標)のそれぞれについて、開示すべき内容の考え方と具体的な開示例が示されています。ここでもテクノロジー企業A・小売企業Bの事例が一貫して使われ、「この経営戦略の企業なら、4つの要素でこう開示する」という流れが読み取れる構成になっています。
旧版の開示項目リストが付録に移され、本文が「なぜ」「どう考えるか」の思考プロセスに再編されたこと、これが改訂版の構成上の最大の変化です。
新たな考え方の柱:「依存と影響」から「リスクと機会」へ
改訂版が旧版から最も大きく前進した点は、「経営戦略と人材戦略の連動」をどう考え、どう説明するかの具体的な道筋を示したことです。その柱となるのが「依存」と「影響」という2つの視点です。
「依存」とは、自社の事業が特定の人的資本にどれだけ頼っているかという視点です。別紙の架空事例で見ると、テクノロジー企業A(AI技術を活用した自動運転の実用化を経営戦略に掲げる)は、AI分野の高度専門人材やソフトウエア開発要員という人的資本に事業の成否が「依存」しています。一方、小売企業Bでは、流動性の高い多数の非正規従業員という人的資本にビジネスモデルが「依存」しています。つまり「依存」の中身は企業ごとに全く異なるのです。
「影響」とは、企業の施策が人的資本にどのような変化をもたらすかという視点です。テクノロジー企業Aであれば、競争力のある報酬水準の設定やグローバル採用活動、開発要員への人材育成研修が人的資本に「影響」を与えます。小売企業Bであれば、従業員の貢献を引き出し離職率を安定させる賃金水準の設定や職場環境の整備が「影響」にあたります。
この「依存」と「影響」の相互関係を明らかにすることで、次のステップとして自社固有の「人的資本関連のリスク」と「機会」が浮かび上がってきます。テクノロジー企業Aにとっては「自動運転の実用化に必要な高度専門人材を確保できないリスク」と「適切な対応により必要な人材を確保できる機会」が識別されます。小売企業Bにとっては「従業員のモチベーションを引き出せず離職・採用コストが増加するリスク」と「人材戦略の実行を通じて安定的なビジネスモデル運用を実現する機会」です。
このように、経営戦略→依存・影響→リスク・機会→人材戦略→指標と目標という一連の流れで開示を組み立てる道筋が、改訂版では初めて明確に示されました。旧版で「連動が重要」と繰り返し述べるにとどまっていた部分に、具体的な思考プロセスと事例が入ったことが、改訂版の核心です。
なお、ISSBでは現在、人的資本に関する個別基準の開発に向けたリサーチ・プロジェクトが進行中であり、人的資本関連のリスクと機会を「従業員構成(Composition)」「能力・スキル(Capability)」「労働・職場環境(Conditions)」の3つに分類する案が検討されています。改訂版はこの国際的な議論の方向性も踏まえたものとなっています。
SSBJ基準の「4つの要素」に沿った開示
「依存と影響」「リスクと機会」で人的資本の全体像を整理したら、次にそれをどういう構造で開示するかが問題になります。ここで使われるのが、SSBJ基準が採用する4つの要素です。
「ガバナンス」では、人的資本関連のリスクと機会を取締役会などのガバナンス機関がどのように監督しているかを開示します。別紙では、取締役会が中長期経営計画とともにサステナビリティ課題(人的資本を含む)の基本方針を決定し、委員会が四半期ごとに進捗報告を行う体制の開示例が示されています。
「戦略」では、人的資本関連のリスクと機会を踏まえた企業の人材戦略そのものを開示します。経営戦略の実現に必要な「あるべき組織・人材の姿」と、そこに至るための「必要となる人的資本投資」を具体的に説明することが求められます。
「リスク管理」では、人的資本関連のリスクと機会を識別し、評価し、優先順位づけし、モニタリングするプロセスを開示します。
「指標と目標」では、人材戦略の進捗(しんちょく)を測る具体的な数値を開示します。ここで重要なのは、改訂版が「独自性のある指標」と「比較可能性のある指標」の組み合わせを求めている点です。自社固有の経営課題に対応した独自指標(例:テクノロジー企業Aであれば高度専門人材の採用目標数と進捗率)と、他社との比較が可能な共通指標(従業員数、離職率、研修投資額、エンゲージメントスコアなど)を併せて開示することが期待されています。ただし、企業が比較可能性を追求するあまり独自性ある開示が抑制されることを投資家は懸念しているとの指摘も改訂版に記載されており、あくまで「自社のストーリー」が優先です。
改訂版に見る「働き方」文脈の広がり
改訂版の骨子(案)本文には、人的資本投資の具体的なポイントとして、生成AIの進展や人口減少への対応、ジョブ型人事の導入、女性活躍やダイバーシティの推進、重要スキルに応じた報酬体系といった内容が明記されています。これらはまさに労働基準法改正で議論されているテーマに直結する内容です。
また、開示の対象が投資家だけでなく求職者や従業員にも広がったことは、労働基準法改正が目指す「働き方を自由にする」方向性と密接に関わります。働き方の選択肢が広がる社会では、人材は企業の人的資本投資の内容を見て就職先を選ぶようになります。可視化指針が「労働市場への情報発信」も視野に入れたことは、この時代の流れを反映したものです。
労働基準法改正の視点から見た可視化指針の活用:具体例で考える
ここからは、改訂版の可視化指針を労働基準法改正の論点とひもづけて、具体的にどのような開示が考えられるかを検討してみます。
本シリーズでは、労働基準法改正の各論を人的資本経営の人材戦略という観点から詳細に掘り下げてきました。そこで一貫して述べてきたのは、労働基準法改正とは単なる規制の変更ではなく、「働き方を自由にし、それによって人と企業の価値を向上させる」ための制度基盤の刷新だということです。そして、その具体的な活用方法——テレワークをどう導入するか、労働時間制度をどう設計するか、賃金体系をどう組み替えるか——は、法が一律に答えを示すのではなく、個別企業の経営戦略と人材戦略に基づく「制度活用の戦略」として委ねられています。
まさに、この構造が今回の可視化指針改訂版の考え方と一致するのです。改訂版が示す「依存と影響」の分析、「リスクと機会」の識別、そして4つの要素に沿った開示という枠組みは、労働基準法改正がもたらす「働き方の自由」を、自社の経営戦略の文脈でどう意味づけ、どう生かしているかを外部に説明するための道具立てそのものです。以下では、この対応関係を具体的な開示例でどんなものがあり得るのかを考えていきます。なお、下記の例は人的資本可視化指針の事例も参考に、基準の定義に忠実に、労働基準法改正と関係が深い事例を筆者が想定したものです。
【例1】多様な働き方と「依存・影響」の開示
労働基準法改正における事業場概念の見直しやテレワーク推進、副業・兼業促進は、改訂版の「依存と影響」の枠組みで開示できます。たとえば「地方在住の専門人材にリモートで依存しており、テレワーク制度がその確保に影響を与えている」というストーリーのもと、テレワーク対象職種での離職率低下や地方採用の定着率を独自性指標として示すことが考えられます。副業・兼業についても「副業許可者数」「副業経験の社内還元事例数」等を設定し、人材の流動性を企業価値向上に結びつけた開示が可能です。
【例2】労働時間法制と「リスク管理」の開示
勤務間インターバル制度や連続勤務の制限といった労働時間法制の見直しは、「リスク管理」の枠組みと直結します。長時間労働→健康悪化→離職率上昇→サービス品質低下という人的資本リスクを識別し、「勤務間インターバル11時間導入後のメンタルヘルス休職者の前年比30%減少」「フレックスタイム制拡充による月平均残業時間の15時間→8時間への低下」といった数値を、生産性指標と併せて開示することで、「健康投資が価値創造につながるストーリー」を具体的に語ることができます。
【例3】労使コミュニケーションと「ガバナンス」の開示
過半数代表制の改善や労使協定の形骸化防止も労働基準法改正の重要テーマです。改訂版の「ガバナンス」の枠組みに、エンゲージメントサーベイの実施率・フィードバック率、働き方に関する提案制度の実施割合、1on1ミーティングの実施率などを組み込むことで、従業員の声が経営判断に反映される仕組みを投資家と求職者の双方に示すことができます。
まとめ:チェックリストから、経営のストーリーへ
人的資本可視化指針の改訂は、旧版で漠然としていた「経営戦略と人材戦略の連動」を、「依存と影響」「リスクと機会」という明確な考え方で具体化し、形式的な網羅から経営戦略との連動を図ったものです。
本シリーズで一貫して述べてきたように、2027年労働基準法改正の根本的な方向性は「働き方を自由にすること」です。可視化指針の改訂は、その自由な働き方が企業の価値創造にどうつながっているかを外部に説明する「語り方」を更新したものだと理解できます。金融商品取引法改正が「何を開示せよ」を定め、可視化指針がその「どう語るか」のガイダンスを提供し、労働基準法改正が「実際にどう働き方を変えるか」の法的基盤を整備するという、三位一体の政策構造であると捉えることもできるのではないでしょうか。
企業にとって重要なのは、これら3つの制度変革を別々の「守りのコンプライアンス対応」として個別処理するのではなく、統合的に捉えて「攻めの価値創造機会」として活用することであると思います。特に、改訂版指針が提示する「依存」と「影響」の視点で自社の人的資本を整理し、労働基準法改正への対応を「独自性指標」として具体的に示していくアプローチは、他社との差別化にもつながります。
なお、改訂版は2026年3月時点でパブリックコメント中の「案」であり、最終版で一部修正が入る可能性があります。SSBJ基準の段階的義務化スケジュールも法的手続き完了前です。しかし、開示の質的向上という大きな方向性が変わることはないと考えられます。今から準備を始めることが、制度変革を自社の競争力に変える第一歩となるのではないでしょうか。
*1 人的資本可視化指針(改訂版)の骨子(案)
https://public-comment.e-gov.go.jp/pcm/download?seqNo=0000305768
*2 人的資本可視化指針(改訂版)別紙
https://public-comment.e-gov.go.jp/pcm/download?seqNo=0000305769
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